反出生主義に関する所感

はじめに

最近、反出生主義という言葉を知った。なお、今の私の知識レベルは、Wikipediaの記事を読んだ程度である。今のところ支持も拒絶もしないものの筋が通っている部分もあるといった印象だ。

興味を惹かれる考えだと思ったものの、思い返してみると思想関連の技術を何も体系的に学んだことがない。強いて言えば、小学校の道徳の授業を受けた記憶がある程度であり、それはすなわち原始人レベルであることを自覚している。

というわけで、倫理学や道徳の考え方について少しずつ知識や技術を学んでいこうと思い立ったのである。
初心を記録するためのメモとして、反出生主義に関する所感を整理してみる。

 

興味を持っている点

反出生主義は、Wikipediaによると下記のような思想とのことである。(私の主観的な裁量により抜粋しているため詳細が気になる方はWikipediaへGO)

 

この世に生まれることおよび子を持つことを否定的に価値づけ、子を持つことを道徳的に悪いと判断する倫理的見解である。誰も産まない価値観が良いことと普及させることで人類を段階的に絶滅させていき、それによって生きるという苦痛を味わうことも無くなり、全てが解決するという考え方である。

 

ひとくちに「反出生主義」と言っても複数の種類があり、1.「誕生否定」すなわち「人間が生まれてきたことを否定する思想」と、2.「出産否定」すなわち「人間を新たに生み出すことを否定する思想」の2種類に大別できる。

 

人類絶滅について

人類絶滅を最終的な達成事項として掲げている点に驚いた。

この点に関して、人類がいずれ絶滅するならばその幕引きの在り方は自分たちで話し合って合意を形成していきたいという流れがあるのかしら、とふと思った。例えば世界的な戦争や巨大隕石の到来、大規模な地殻・天候変動などといったリスクは、数千年、数万年といった時間スケールでは無視できないものだろうし、起きうる最悪の人類滅亡シナリオの一つとも言えよう。

 

反出生主義による人類滅亡は、最悪のシナリオと比較すると、幾分か穏やかな幕引きなのかもしれない。まあ、本当にそういうような学術的な流れがあるかどうかについては、今後の学習を進めるにあたって明らかになることだろうと期待している。

 

しかしながら、現在の技術レベルでは電気水道ガスなどのインフラ設備に関する管理保守は完全自動化できているわけではないとの認識なので、人口が減っていくとどこかのタイミングでそれらのインフラ設備が全く機能しなくなり、穏やかな終末を迎えられるイメージが湧かないものだが。

 

誕生否定について

誕生否定に関してだが、自分でも考えたことがあるような馴染みのある考え方であり、そういう考え方が倫理学的にも検討されていることについて興味を持った。

ただし、生まれてきたことに対する否定については、長年(とはいっても10年くらい)の自己問答の結果、自分のことに関してのみ限定すれば折り合いを付けてしまっている状態でもあるので、それを紹介してみる。

  • もう生まれてきてしまった過去は変えられないし、「もし自分が生まれてこなかったら」という仮定を検討することは非現実的な考え方だと思う
  • 快楽と苦痛の予測計算でたとえ苦痛が勝るとしても、ほんの少し垣間見えた快楽の面に価値を感じているのであれば、それを信じる
  • そして常に自分の今の予測計算が正しいとは限らないし、状況に応じて動的に変化していくものである

私はこれを「趣味で生きている」状態と勝手に呼んでいる。常にこういう考え方で居続けられるかどうかは課題であるものの、ひとまず自分自身の誕生否定については思考のフレームワークとして採用していない状況だ。


興味のある点としては、このような「趣味で生きている」考え方が反出生主義のアンチテーゼとしてどういう位置づけにあるのかということだ。

また、誕生否定では自分だけではなく、「人間が生まれてきたこと一般を否定する思想」もあるらしく、そのあたりももう少し体系的に知っていきたい。

 

出産否定について

出産否定に関してはあまり考えたことのない話題であり、個人的な見解を構成していきたいと思えた。

出産否定の要点として、子が生まれる場合および子が生まれない場合において、それぞれ快楽がある状態と苦痛がある状態について倫理学的な「良い」「悪い」の評価を行う結果、子が生まれない場合の方がより「良い」状態と見なせることと認識している。これを「快楽と苦痛の非対称性」というらしい。

この快楽と苦痛の非対称性は、長年の自己問答の中でがっつり対面してきた考えの一つのように思えて興味を惹かれた。

なお、誕生否定についても同様に、自分が生まれる場合と生まれない場合に場合分けをして評価を行うようだ。


ひとまず論理を追いかけることができ、筋が通っていると思ったのだが、疑問点もいくつかある。

  • そもそも生まれてきていない人の快楽や苦痛を現時点において評価しうるものなのか
  • 「良い」「悪い」とは倫理学的な立場ではどういう意味なのか
  • そしてその「良い」「悪い」を論理的に静的なものとして扱っても妥当なのか

自分の子に対する誕生否定とも言えるが、個人的には立ち止まって考えてみる価値のある話題だと感じた。

いずれにしても、反出生主義の論理展開で使用されている倫理学用語の意味するところがよく分かっていないのが現状である。

これが倫理学や道徳の考え方について学びたいと思う動機である。

 

うんざりしている点

いくつか反出生主義に関する記事を読んでみたところ、議論がかみ合っていない印象を受けた。

記事の内容を読む限り、肯定派のうち、一部の過激な人たちが悪目立ちしており、そういう人たちへの強い反発が状況を混沌化させているように思われた。

また、反出生主義を否定している人の主張は、実際には反出生主義自体ではなく、過激派の極端な論理展開を否定しているだけのように思える。

このような混沌な状況については、うんざりしているし、ネット記事で情報収集することは有益ではないと感じた。

 

現状、私が把握している範囲では、反出生主義をある程度は自分一人でも実行しうるように思えている。例えば出産否定ならば子を産むための行為しなければ、それで済む話なのではないだろうか。

過激派の人は、自分の考える道徳的な価値観を他者に押し付けるモラルハラスメント、あるいは自分の負の感情に目が行き過ぎて自己防衛的な発言をしているだけのように思えた。

価値観や考え方に違いがあるということを理解して、合意が取れないところについては棲み分けるように工夫をする態度が過激派の人に不足しているように思える。

「この壺を買えば幸せになれる!」と信じている人から壺を買うように諭されても、買うか否かの選択の自由は話を聞いている人にあると思うし、合意が取れないのであれば距離を置けば済む話なのでは…?と個人的には思っている。

 

まとめ

最近知った反出生主義という考え方について、今の自分なりの捉え方を整理してみた。

しかしながら、現状の私の倫理方面の知識および技術は全く研磨されていない原始人レベルであることを自覚している。

倫理や道徳の考え方について少しずつ知識や技術を学んでいきたい。

今回は、初心を記録してみたのだが、倫理や道徳について学んだ後に読み返してみるのが少し楽しみである。